Nirvana - Smells Like Teen Spirit
(Nevermind full album playlist)
走っては戻り、ケルビムのように
さて、われらは再び、あの猫背の友を
一人前の兵士に仕立てる訓練へ戻るとしよう。
こうした脱線も、完全な寄り道ではないのだ。
それは懐疑の限界について
多くの光を投げかけてくれるのだから。
われらはマルクトの視点を問いただした
それは滑稽に思える、という点では一致しよう。
だがティファレトの位置は揺るがない
ティファレトはマルクトが滑稽であることを知っている。
だがティファレトに砲撃を向ければ、それもまた崩れ落ちる
だがその上にはケテルが眉をひそめている。
ケテルを攻撃すれば、それもまた倒れる
だが形成界のマルクトはまだそこにある...
我々がアツィルト界のケテル、そして
無限の光と空間、虚無へ至るまで。
それゆえ、われらは道を遡り
殿(しんがり)の戦いをしながら後退してゆく
その途中で兵士は猫背に倒される
だが常に、新たな兵士がすぐ隣に立っている。
終わりまで。
終わり?
仏陀は猫背が無限に供給されると考えていた
だが兵士たち自身が無限である
という可能性もあるのでは?
それがどうであれ、肝心なのはこういうことだ
猫背が一人を殺すには時間がかかる
そして出発点から離れるほどその時間は長くなる。
少年の夢の世界などは、指先で潰せるほどに脆い
だが物質宇宙を崩壊させるには
猫背たちは悪魔的なまでに訓練されて
兵士そのもののようにならねばならぬ。
そして、三昧 (サマディ)の意識を揺るがすような問いは
フリードリヒの擲弾兵にも優るとも劣らぬ威力を持つのだ。
神秘家に「サマディは健康に良いのか?」
などと問うのは無意味である
それは猟師に「キツネを傷つけないように」
と頼むようなものだ。
サマディを打ち砕く “究極の問い” は
それまでの「!」すべてを凌駕する「!」であり
たとえその形が「?」であっても
その実体は壮大なる“感嘆符”である。
その問いの名は **ニルバーナ(涅槃)** である。
では、この「魂」の問題を取り上げよう。
ジューダス・マキャベッジ氏が「街の男」に
なぜ魂を信じているのかと尋ねると
その男は「昔からそう聞いてきたから」
と、どもりながら答える
当然、マキャベッジ氏は生物学的な手法で
彼には魂などないと容易に証明してみせ
にっこり笑ってそれぞれの道を行く。
だがマキャベッジ氏の手法は「魂」という観念を
内観によって信じている哲学者には通じない
もっと重たい武器が要る
ここでヒュームが出番となるかもしれない。
だが、ヒュームもまた、ヒンドゥーの神秘家
(常に彼の「新たに見出したアートマン(真我)」
を強烈に享受している者)
を相手にすれば、完全に無力だ。
それを打ち砕くには「仏陀砲」が必要である。
マキャベッジの思想は陳腐で退屈だ
ヒュームのそれは生き生きとして力強い
その中には、「街の男」の喜びよりも
はるかに大きな歓びがある。
そしてまた「無我(アナッター)」という仏陀の思想は
哲学者の人形じみた自我よりも、ヒュームの論理砲よりも
はるかに壮麗なる概念である。
この武器――すなわち、われらの小さな幻影宇宙を破壊しより実在的なものを明かすための道具――を、われらは
神々しい狂喜とともに振るわずにいられようか?
また、問いと答えの相互依存、その一方が他方を必要と
する必然性を、われらは感じずにいられようか?
ちょうど「0 × ∞」が不定であるように
われらは「?」と「!」の絶対性を
その交替と均衡によって打ち砕き
かくして「? ! ? ! ? …」という連なりの中で
どれが終端であるかなど気にもせぬほど、単一の項が
全体の壮大さに対して取るに足らぬものとなるのだ。
それは計り知れぬ正の係数を持つ等比数列なのではないか?
この一連の過程を照らしてみれば
われらは振り子の揺れそのものに
絶対的価値を認めることはできぬ。
それがいかに長くなろうと、揺れの周期が遅くなろうと
振幅が広がろうと、である。
われらが注目すべきは――
振り子が吊るされているその「点」
静止し、すべての上にあるその「頂点」なのである!
だがわれらはその観測には不利な位置にいる――
振り子の錘にしがみつき、奈落の底で意味もなく
揺れに酔っている状態なのだから!
われらはその「軸」をよじ登らねばならぬ
――が――待て!
この喩え話、いささか込み入りすぎていないか?
この表現に、果たして真の意味を見出せるだろうか?
私は疑う。
それというのも、われらが「揺れの限界」と考えたものが
いかなるものだったかを思い出してほしい。
確かに、終わりには振り子の揺れが常に
360度になるのかもしれない
すなわち「!」の点と「?」の点が一致するのだ
だがそれは、揺れが消えるということとは違う
(運動学を静力学と同一視しない限りは。)
さて、どうすればよいのか?
このような神秘を、いかにして語りうるのか?
これがまさに、「賢者の真の道」が
知識と三昧の道における進歩とは
まったく異なる次元に存在すると言われる理由なのか?
われらはすでに
三昧(サマディ)の性質を説明(あるいは例証)するために
第四次元という概念に頼らざるを得なかった。
「サマディは終わりではなく、始まりである」
とアデプトたちは言う。
「サマディは、探求を始めるための
“正常な” 意識状態と見なすべきである。
ちょうど、目覚めがサマディへ至る出発点であるように
眠りは目覚めへの出発点である。
そして、ただ正しき連続三昧 (サンマサマディ)
においてのみ、人はつま先立ちして
雲の向こうの山々を垣間見ることができるのだ」
なんともありがたいことに、アデプトたちは
これほどまでに我々のために尽くし
親切かつ明晰に説いてくれるのだ。
やるべきことは簡単
「サンマサマディを獲得して、つま先立ちせよ」
まさにその通り!
もちろん、これは至極単純明快な話だ。
我々が今日着ているスーツが小さすぎて
まだ子供だったときのものであると気づけば
誰だってより大きな服を買いに行くだろう
少なくとも、常識がある者ならそうするはずだ。
だが――では
どうやってより大きな衣を手に入れるのか?
道は二つある。
まずは、神秘主義者たちがたどる道――
無限の中へと向かい、
自己の境界を解き放っていく方法。
彼らは言う。
「自己とは、肉体でもなく、思考でもなく
感情でもなく、知覚でもなく、ましてや
経験や記憶の連なりなどではない」と。
そして、彼らはこれらの要素を一つずつ手放していく。
ついには「純粋なる無」に到達し
それを「真我」と名付ける。
だが、それは一体なんだ?
それは本当に「得た」ものなのか?
あるいは単なる否定の果てに残された
「何ものか」ではないのか?
我々は第二の道を考慮せねばならぬ。
すなわち、分析と統合の道。
哲学と科学の方法だ。
この方法では、我々はまず「私とは何か?」
という問いに向き合う。
そして、その問い自体がどれほど欺瞞的であり
問いの前提そのものがいかに揺らいでいるかに
気づかねばならない。
たとえば「私は歩いている」というとき
それは「私」と「歩く」という行為が分離できる
という仮定に基づいている。
だが実際には、歩く「私」などという
固定された実体はどこにもなく
ただ「歩くという過程」があるばかりだ。
同様に「私は考えている」と言うときにも
我々は「私」と「思考」という二つの実体を前提としている。
だが、もし我々が思考をやめたら
その「私」はなお存在し続けるのか?
いや、それどころか、「私」は「思考」という
動きのうちにしか存在しないのかもしれぬ。
そして、思考が止めば「私」もまた霧散する。
これは恐るべき考察である。
なぜなら「私」という感覚が幻想であるならば
その幻想を基盤にして築かれた
すべての価値、道徳、宗教、文明、愛、希望
そして絶望すらも、全てが蜃気楼となってしまうからだ。
だが、友よ、嘆くには及ばぬ。
この「無」のうちにこそ、真の自由があるのだ。
この幻影の宇宙を一つずつ剥がし取っていくとき
我々はついに「真なる沈黙」へと至る。
そこには、言葉もなく、時間もなく、自己もなく
ただ存在そのものの純粋な輝きがある。
そこに至って初めて、人は本当に「自由」になるのだ。
何ものにも囚われず、何ものにも依存せぬ純粋なる光。
あらゆる形を超えたところにある
「形なき神の顔」を見出す場所。
そして――
…しかし、この「無」は、空虚な虚無ではない。
それは、存在の裏面、動きの停止
時間の消失、空間の消尽
すべての性質を脱ぎ捨てた、純粋なる実在。
これは「非存在」ではない、「超存在」だ。
この地点において
もはや「質問」も「答え」も意味をなさない。
「?」と「!」は同一の点に収束し
全ての対立が溶解する。
「善と悪」「光と闇」「自己と他者」
こうした全ての二元性は
ひとつの輝く「沈黙」に吸収される。
これが「Nibbana(涅槃)」の正体である。
それは、単なる停止ではない。
絶対的肯定にして絶対的否定。
一切の価値を超越した、最も高貴な「意味の消滅」。
思考によっては到達できず
感情によっても触れられず
ただ「在る」もの。
ゆえに、いかなる「答え」も、それを語り得ぬ。
ゆえに、いかなる「問い」も、それを指し示し得ぬ。
これは、沈黙の中でのみ伝わる。
それは、完全な音なき音、動かざる動き――
――「彼岸」そのものだ。
さあ、小さき兄弟よ、手を取りて共に進もう。
すべてを捨てよ。希望も、恐れも、知識も、信仰も。
真に裸でなければ、汝は門をくぐれぬ。
我らが求めるものは「無」の向こうにある「すべて」
―― 「超存在」であるからだ。
ここに至りてようやく
汝は「兵士」と「せむし男」が争う理由を知る。
そして、それが争いでさえなかったことも。
彼らは同じ者の二つの顔であり、互いの闘争を通じて
汝の王冠を鍛えたのだ。
その王冠こそが、汝の「真我」。
それは、十二の星を戴き
虚無の空間に凍てつくように輝く。
その静寂と孤独の中で奏でられる音楽、それが汝自身。
汝の右手には光の杖、 左手には死の鞭
腰には太陽よりも輝く蛇
――その名は「永遠」。
汝の唇は月のように弧を描き
星々の女神「ヌイト」の見えざる接吻に微笑む。
汝の身体は電気のような静止の中にあり
愛の制御された激しさの中で、ただ在るのみ。
だが――それらすらも超えて
「汝」はただ、「在らぬもの」。
名もなく、像もなく
「I(われ)」も「Thou(なんじ)」も
「He(かれ)」も超えて、 ただ「それ」
――名前なき唯一へと至る。
――小さき兄弟よ、手を取れ。
第一歩が最も困難なのだ。
アレイスター・クロウリー
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この章(チャプター9)で
この本『兵士と猫背男』は終了です
わたしの感想は…
これって「魔導書」の一種だよねって感じ
密教を学べば超能力が手に入る!【俺的暦シリーズ12】
「#マインドゲリラ・兵士と猫背男《チャプター1》」

『兵士と猫背男』は・・・
『嘘の書』の最初の方に入っている
「?」と「!」だけのページに関する説明は
『兵士と猫背男』という
自身が以前に書いた本に書かれている
…と、その後のページに書かれていたので
『嘘の書』の翻訳を先に進める前に
これを翻訳してみた次第です

このBlog『#マインドゲリラ』の前々からの読者なら
わかると思いますが・・・
時はきた! …って話なんだよね



地球が危ないってこと…

…そして
問題解決のために、今ここに
世界中に散らばった智天使たちが
集結しているところ・・・

【 】wiki (ケルビム)



もう一つの理由は・・・