#マインドゲリラ

カテゴリ: 兵士と猫背男


Nirvana - Smells Like Teen Spirit
(Nevermind full album playlist)


走っては戻り、ケルビムのように

さて、われらは再び、あの猫背の友を
一人前の兵士に仕立てる訓練へ戻るとしよう。

こうした脱線も、完全な寄り道ではないのだ。
それは懐疑の限界について
多くの光を投げかけてくれるのだから。  

われらはマルクトの視点を問いただした
それは滑稽に思える、という点では一致しよう。
だがティファレトの位置は揺るがない

ティファレトはマルクトが滑稽であることを知っている。
だがティファレトに砲撃を向ければ、それもまた崩れ落ちる

だがその上にはケテルが眉をひそめている。  
ケテルを攻撃すれば、それもまた倒れる

だが形成界のマルクトはまだそこにある...
我々がアツィルト界のケテル、そして
無限の光と空間、虚無へ至るまで。  

それゆえ、われらは道を遡り
殿(しんがり)の戦いをしながら後退してゆく

その途中で兵士は猫背に倒される
だが常に、新たな兵士がすぐ隣に立っている。  

終わりまで。

終わり?

仏陀は猫背が無限に供給されると考えていた

だが兵士たち自身が無限である
という可能性もあるのでは?  

それがどうであれ、肝心なのはこういうことだ

猫背が一人を殺すには時間がかかる
そして出発点から離れるほどその時間は長くなる。
少年の夢の世界などは、指先で潰せるほどに脆い

だが物質宇宙を崩壊させるには
猫背たちは悪魔的なまでに訓練されて
兵士そのもののようにならねばならぬ。

そして、三昧 (サマディ)の意識を揺るがすような問いは
フリードリヒの擲弾兵にも優るとも劣らぬ威力を持つのだ。  

神秘家に「サマディは健康に良いのか?」
などと問うのは無意味である

それは猟師に「キツネを傷つけないように」
と頼むようなものだ。

サマディを打ち砕く “究極の問い” は
それまでの「!」すべてを凌駕する「!」であり
たとえその形が「?」であっても
その実体は壮大なる“感嘆符”である。  

その問いの名は **ニルバーナ(涅槃)** である。

では、この「魂」の問題を取り上げよう。  

ジューダス・マキャベッジ氏が「街の男」に
なぜ魂を信じているのかと尋ねると
その男は「昔からそう聞いてきたから」
と、どもりながら答える

当然、マキャベッジ氏は生物学的な手法で
彼には魂などないと容易に証明してみせ
にっこり笑ってそれぞれの道を行く。  

だがマキャベッジ氏の手法は「魂」という観念を
内観によって信じている哲学者には通じない

もっと重たい武器が要る

ここでヒュームが出番となるかもしれない。  

だが、ヒュームもまた、ヒンドゥーの神秘家
(常に彼の「新たに見出したアートマン(真我)」
を強烈に享受している者)

を相手にすれば、完全に無力だ。

それを打ち砕くには「仏陀砲」が必要である。  

マキャベッジの思想は陳腐で退屈だ

ヒュームのそれは生き生きとして力強い

その中には、「街の男」の喜びよりも
はるかに大きな歓びがある。

そしてまた「無我(アナッター)」という仏陀の思想は
哲学者の人形じみた自我よりも、ヒュームの論理砲よりも
はるかに壮麗なる概念である。  

この武器――すなわち、われらの小さな幻影宇宙を破壊しより実在的なものを明かすための道具――を、われらは
神々しい狂喜とともに振るわずにいられようか?

また、問いと答えの相互依存、その一方が他方を必要と
する必然性を、われらは感じずにいられようか?

ちょうど「0 × ∞」が不定であるように
われらは「?」と「!」の絶対性を
その交替と均衡によって打ち砕き
かくして「? ! ? ! ? …」という連なりの中で
どれが終端であるかなど気にもせぬほど、単一の項が
全体の壮大さに対して取るに足らぬものとなるのだ。

それは計り知れぬ正の係数を持つ等比数列なのではないか?  

この一連の過程を照らしてみれば
われらは振り子の揺れそのものに
絶対的価値を認めることはできぬ。

それがいかに長くなろうと、揺れの周期が遅くなろうと
振幅が広がろうと、である。  

われらが注目すべきは――

振り子が吊るされているその「点」
静止し、すべての上にあるその「頂点」なのである!


だがわれらはその観測には不利な位置にいる――

振り子の錘にしがみつき、奈落の底で意味もなく
揺れに酔っている状態なのだから!  

われらはその「軸」をよじ登らねばならぬ

――が――待て!

この喩え話、いささか込み入りすぎていないか?
この表現に、果たして真の意味を見出せるだろうか?

私は疑う。

それというのも、われらが「揺れの限界」と考えたものが
いかなるものだったかを思い出してほしい。

確かに、終わりには振り子の揺れが常に
360度になるのかもしれない
すなわち「!」の点と「?」の点が一致するのだ
だがそれは、揺れが消えるということとは違う
(運動学を静力学と同一視しない限りは。)  

さて、どうすればよいのか?

このような神秘を、いかにして語りうるのか?  

これがまさに、「賢者の真の道」が
知識と三昧の道における進歩とは
まったく異なる次元に存在すると言われる理由なのか?  

われらはすでに
三昧(サマディ)の性質を説明(あるいは例証)するために
第四次元という概念に頼らざるを得なかった。  

「サマディは終わりではなく、始まりである」

とアデプトたちは言う。

「サマディは、探求を始めるための
“正常な” 意識状態と見なすべきである。

ちょうど、目覚めがサマディへ至る出発点であるように
眠りは目覚めへの出発点である。

そして、ただ正しき連続三昧 (サンマサマディ)
においてのみ、人はつま先立ちして
雲の向こうの山々を垣間見ることができるのだ」  

なんともありがたいことに、アデプトたちは
これほどまでに我々のために尽くし
親切かつ明晰に説いてくれるのだ。

やるべきことは簡単

「サンマサマディを獲得して、つま先立ちせよ」

まさにその通り!

もちろん、これは至極単純明快な話だ。

我々が今日着ているスーツが小さすぎて
まだ子供だったときのものであると気づけば
誰だってより大きな服を買いに行くだろう
少なくとも、常識がある者ならそうするはずだ。

だが――では

どうやってより大きな衣を手に入れるのか?

道は二つある。

まずは、神秘主義者たちがたどる道――

無限の中へと向かい、
自己の境界を解き放っていく方法。  

彼らは言う。

「自己とは、肉体でもなく、思考でもなく
感情でもなく、知覚でもなく、ましてや
経験や記憶の連なりなどではない」と。

そして、彼らはこれらの要素を一つずつ手放していく。

ついには「純粋なる無」に到達し
それを「真我」と名付ける。  

だが、それは一体なんだ?

それは本当に「得た」ものなのか?

あるいは単なる否定の果てに残された
「何ものか」ではないのか?  

我々は第二の道を考慮せねばならぬ。

すなわち、分析と統合の道。

哲学と科学の方法だ。  

この方法では、我々はまず「私とは何か?」
という問いに向き合う。

そして、その問い自体がどれほど欺瞞的であり
問いの前提そのものがいかに揺らいでいるかに
気づかねばならない。  

たとえば「私は歩いている」というとき
それは「私」と「歩く」という行為が分離できる
という仮定に基づいている。

だが実際には、歩く「私」などという
固定された実体はどこにもなく
ただ「歩くという過程」があるばかりだ。  

同様に「私は考えている」と言うときにも
我々は「私」と「思考」という二つの実体を前提としている。

だが、もし我々が思考をやめたら
その「私」はなお存在し続けるのか?  
いや、それどころか、「私」は「思考」という
動きのうちにしか存在しないのかもしれぬ。

そして、思考が止めば「私」もまた霧散する。  

これは恐るべき考察である。  

なぜなら「私」という感覚が幻想であるならば
その幻想を基盤にして築かれた
すべての価値、道徳、宗教、文明、愛、希望
そして絶望すらも、全てが蜃気楼となってしまうからだ。  

だが、友よ、嘆くには及ばぬ。  

この「無」のうちにこそ、真の自由があるのだ。  

この幻影の宇宙を一つずつ剥がし取っていくとき
我々はついに「真なる沈黙」へと至る。

そこには、言葉もなく、時間もなく、自己もなく
ただ存在そのものの純粋な輝きがある。  

そこに至って初めて、人は本当に「自由」になるのだ。

何ものにも囚われず、何ものにも依存せぬ純粋なる光。

あらゆる形を超えたところにある
「形なき神の顔」を見出す場所。  

そして――


…しかし、この「無」は、空虚な虚無ではない。

それは、存在の裏面、動きの停止
時間の消失、空間の消尽
すべての性質を脱ぎ捨てた、純粋なる実在。  

これは「非存在」ではない、「超存在」だ。  

この地点において
もはや「質問」も「答え」も意味をなさない。

「?」と「!」は同一の点に収束し
全ての対立が溶解する。

「善と悪」「光と闇」「自己と他者」

こうした全ての二元性は
ひとつの輝く「沈黙」に吸収される。  

これが「Nibbana(涅槃)」の正体である。  

それは、単なる停止ではない。

絶対的肯定にして絶対的否定。

一切の価値を超越した、最も高貴な「意味の消滅」。

思考によっては到達できず
感情によっても触れられず
ただ「在る」もの。

ゆえに、いかなる「答え」も、それを語り得ぬ。
ゆえに、いかなる「問い」も、それを指し示し得ぬ。  

これは、沈黙の中でのみ伝わる。

それは、完全な音なき音、動かざる動き――

――「彼岸」そのものだ。  

さあ、小さき兄弟よ、手を取りて共に進もう。

すべてを捨てよ。希望も、恐れも、知識も、信仰も。

真に裸でなければ、汝は門をくぐれぬ。

我らが求めるものは「無」の向こうにある「すべて」

―― 「超存在」であるからだ。  

ここに至りてようやく
汝は「兵士」と「せむし男」が争う理由を知る。

そして、それが争いでさえなかったことも。

彼らは同じ者の二つの顔であり、互いの闘争を通じて
汝の王冠を鍛えたのだ。  

その王冠こそが、汝の「真我」。

それは、十二の星を戴き
虚無の空間に凍てつくように輝く。

その静寂と孤独の中で奏でられる音楽、それが汝自身。  

汝の右手には光の杖、 左手には死の鞭
腰には太陽よりも輝く蛇

――その名は「永遠」。  

汝の唇は月のように弧を描き
星々の女神「ヌイト」の見えざる接吻に微笑む。

汝の身体は電気のような静止の中にあり
愛の制御された激しさの中で、ただ在るのみ。  

だが――それらすらも超えて

「汝」はただ、「在らぬもの」。  

名もなく、像もなく

「I(われ)」も「Thou(なんじ)」も
「He(かれ)」も超えて、 ただ「それ」

――名前なき唯一へと至る。  

――小さき兄弟よ、手を取れ。

第一歩が最も困難なのだ。  


アレイスター・クロウリー


《THE SOLDIER AND THE HUNCHBACK: ! AND ?》 

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《翻訳者kirakuによるメモ》  



この章(チャプター9)

この本『兵士と猫背男』は終了です

わたしの感想は…

これって「魔導書」の一種だよねって感じ



密教を学べば超能力が手に入る!【俺的暦シリーズ12】

「#マインドゲリラ・兵士と猫背男《チャプター1》



『兵士と猫背男』は・・・

『嘘の書』の最初の方に入っている
「?」「!」だけのページに関する説明は
『兵士と猫背男』という
自身が
以前に書いた本に書かれている
…と、その後のページに書かれていたので
『嘘の書』の翻訳を先に進める前に
これを翻訳してみた次第です



このBlog『#マインドゲリラ』の前々からの読者なら
わかると思いますが・・・

はきた! …って話なんだよね

「#マインドゲリラ・時はきた!

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「#マインドゲリラ・
時間・大戦・日月神示・五十六・火刑・火葬




地球が危ないってこと…

ラセル 2
「#マインドゲリラ・
フェニックス・大難を小難に・死と復活」


…そして

問題解決のために、今ここに
世界中に散らばった智天使たちが
集結しているところ・・・

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智天使wiki (ケルビム)

「#マインドゲリラ・
CIVIL WAR・タロットとトーラー・FEMA


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「#マインドゲリラ・艮の金神=大元帥明王=アラハバキ

 こういう理由もありますが…

rectangle_large_type_2_4e2341faac53ce437f9260592b81419c.jpgのコピー
「#マインドゲリラ・
新地町・金華山・弁財天・網地島・雛形の日本


もう一つの理由は・・・

日本が西洋の一神教の国々に対する
東洋の多神教の国々の代表だから
八百万の神や、死んだらみんな仏さま…
のような思想が、国民の言語DNAに染み
ついた国だから・・・


アラハバキ
「#マインドゲリラ・悪魔崇拝で国おこし(笑)

世界中に散らばった智天使たちにとって
日本は居心地がいい場所なのです


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「#マインドゲリラ・
マトリックス・ホムンクルス・賢者の石・縄文


ONIDA
「#マインドゲリラ・
一休・エルサレム・フラクタル・名草山


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「#マインドゲリラ・
崇・祟・金字塔・平将門・牛頭天王


? !


Oasis - Whatever (Official Video)

脱線するように見えるリスクを冒してでも
私は哲学的な観点と実践的な観点
あるいは(カバラ的な言い方をすれば)
ケテル(Kether)とマルクト(Malkuth)の違いを
強調しなければならない。  

個人的な会話の中で、私はこの点
――私には非常に単純に思える点――
を他人に理解させるのが難しい
ほとんど不可能であると感じる。

私はそれを非常に明確にしようと試みよう。  

ブーツは幻想である。  
帽子も幻想である。  
「ゆえに」ブーツは帽子である。  

私の友人たちはこのように議論するが
それは中項を分配していない。

しかし、私の議論はこうだ。  

「ゆえに」(これは三段論法ではないが)

すべてのブーツと帽子は幻想である。

私は付け加える:  

ケテルにいる人にとって、幻想は問題ではない。  

「ゆえに」

ケテルにいる人にとって

ブーツも帽子も問題ではない。  

事実、ケテルにいる人は
これらのブーツや帽子とはまったく関係がないのだ。  

「あなたは自分をケテルにいる人間だと主張する
(私はそうは言っていない)が、それなら
なぜブーツを頭に、帽子を足に履かないのか?」

と彼らは言う。  

私はこう答えるしかない

ケテルにいる私(これはあくまで議論上の話だ)は
ブーツや帽子と同様に、足や頭とも無関係である。
だが、なぜ私が(その高みからわざわざ)
マルクトにいる頭と足を持った紳士――

私にとっては実在しない存在だが――の服装に
そんなに劇的な変化を加えて悩ませなければならないのか?
何の違いもないのだ。

私は簡単に彼の肩にブーツを載せ、片足に頭
もう片足に帽子を載せることもできる。  

要するに、たとえ宇宙について狂ったような
考えを持っていたとしても、清く正しいアイルランド紳士で
いてはいけない理由があるだろうか?  

「なるほど」と私の友人たちは悪びれもせずに言う。

「ならばそれを貫けばいいではないか。
なぜスペインのジプシーを崇めるのか?
牧師の娘と結婚しておいて。」  

「なぜ、普通の男なら人生を捨てるようなことが
18ペンスで楽しめると公言して回るのか?」

 ああ! ここで
ティファレト(Tiphereth)の男を紹介しよう。

つまり、意識をマルクトから
ケテルへと高めようとしている男だ。  

このティファレトの男は困難な状況にある!

彼は理論的にはケテルの視点について知っている
(あるいはそう思っている)し、実際には
マルクトの視点についても知っている。
そのため、彼はマルクトを否定して歩き回り
マルクトに自分の思考が支配されることを拒む。
彼は、ヤギと神には違いがないと叫び続けることで
(いわば)その同一性を認識しようと
自らを催眠状態にしようとする。

これは彼なりのケテル的視点
への到達手段なのだ。  
(部分的かつ誤ったものだが)

この男は偉大な魔術を行う。

非常に強力な“薬”を使う。

彼は本当に、ゴミの山の中に金を見つけ
美しい少女たちの中に骸骨を見つけるのだ。  

薔薇十字団の聖なる山「アビエグナス(Abiegnus)」
の中央神殿において、入門者はただ一つの棺を見出す
(だがその棺の中にはクリスチャン・ローゼンクロイツ
が眠っている。彼は死んでおり、永遠に生きており
地獄と死の鍵を持つ者である。)  


ああ、ティファレトの男

――慈悲と正義の子――
肌の奥まで見通すのだ!  

だが、彼はマルクトの男にもケテルの男にも
滑稽な存在にしか見えない。  

それでも、彼は最も興味深い存在であり
我々すべてがその段階を通らねばならない。

頭が本当に澄み渡る前
アビエグナスの山を取り巻く雲の上に
ケテルの幻視を見る前に――。


《THE SOLDIER AND THE HUNCHBACK: ! AND ?》 

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《翻訳者kirakuによるメモ》  



 これは観るべし !


この動画、悪魔的につき必見!!

「#マインドゲリラ・
418:アレイスター・クロウリーとRAW


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カバラwiki

「#マインドゲリラ・
ミトラ・アイオーン・ゾロアスター・カバラ




薔薇十字団の聖なる山「アビエグナス(Abiegnus)」

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「#マインドゲリラ・兵士と猫背男《チャプター2》」

《tumblr》Mount Abiegnus

「#マインドゲリラ・薔薇十字団」




「我は120年後に開顕されるであろう」
(Post CXX ANNOS PATEBO) 


「#マインドゲリラ・竹の仕組み(その3)

1236778586
「#マインドゲリラ・秘密の首領

1604年から60年の周期

1604年 1664年 1724年 1784年 1844年 
1904年 1964年 2024年 2084年 2144年


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クリスチャン・ローゼンクロイツwiki

「#マインドゲリラ・
418:アブラハタブラ・ホルスのアイオーン」


Hare Krsna Mantra

しかしながら、もしあなたが本当に
「軍人的視点」からの意見を知りたいのであれば
私もそれに応じる努力をしてみましょう。  

質問が明確に理解されるためには、質問者と被質問者が
同じ土俵に立っている必要があります。  

「円い四角は三角形か?」
「バターには徳があるか?」
「1シリングは何オンスか?」

といった質問をされても、答えることは不可能です。

なぜなら、それらは
本当の意味での「質問」ではないからです。  

ですから、もしあなたが
「サマーディ(三昧)は実在するのか?」
と尋ねるのであれば、私はまずこう答えましょう

「まず、お願いですから、その言葉の間に
何らかのつながりを確立してください。
あなたが “サマーディ” と言うとき
それは一体どういう意味ですか?」  

私が「サマーディ」と呼んでいる状態があります。

それは生理学的(あるいは病理学的——今は
そこは置いておきましょう)な一種の状態であり
人間にとって「睡眠」や「酩酊」や「死」と同様に
現実のものです。  

哲学的には
これらすべての存在を疑うこともできるでしょう。

しかし、これらの間に違いを設ける根拠はなく
(アカデミックな懐疑主義というのは
すべてを疑うことを商売にしているのですから!)

実際問題として、私はあなたが
これらを有効に区別できるとは思いません。  

これらはすべて、人間の意識の状態にすぎません。

そして、もしあなたがそのうちの一つを否定しようとするなら
他のすべてもろともに崩れ落ちるのです。



《THE SOLDIER AND THE HUNCHBACK: ! AND ?》 

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《翻訳者kirakuによるメモ》  

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チャクラ】wiki


【死後の世界】【生前の世界】
【どのようにして肉体に宿ったのか】
ついに解き明かされた!


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「#マインドゲリラ・
神智学・ムーンチャイルド・マイトレイヤー」


Neil Young - Heart of Gold (Official Audio)

私たちはそろそろ、自分たちのデータの正当性を
疑い始めるべき時ではないだろうか。

これまでの懐疑は、我々の思考の塔を打ち壊した
だけでなく、その基礎石をも引き抜き
モーセが金の子牛を粉々に砕いたときよりもさらに細かく
さらに毒々しい粉末にしてしまった。

この黄金のエロヒムたちよ!
我らの子牛の頭たちよ
それらは我々をエジプトから救い出したのではなく
アサールの二重帝国のいかなる闇よりも深く
より実体的な闇へと導いたのだ。

ヒュームはバークリーの「神!」に小さな「?」を付けた。

ブッダもヴェーダのアートマンに「?」を投げかけた

—— そして

ヒュームもブッダも、その報いを拒まれることはなかった。

我々自身、自分自身の「?」に「?」を付けることができる。
なにしろ、それを投げかける「!」すら
見つけられていないのだから。

そして、もしその二つ目の「?」が突然背筋を伸ばし
胸を張って「!」となって行進を始めたら
どれほど愉快なことか!  

…さて、我々が懐疑主義によって
知識を根こそぎ破壊したと受け入れたとして
その作用に限界はないのだろうか?

それはある意味で、自己矛盾に陥ってはいないか?

論理によって論理を破壊したのなら
「サタンがサタンを追い出すのなら
その王国はどうして立っていられるのか?」

我々は救世主のごとく山に立ち
「サタンよ、我が後ろに退け!」と叫ぼうではないか。
聖句を引用することも、理由を述べることもなく。

おっと! 誰かが言う。

「これはアレイスター・クロウリーではないか?
目を潰され、縛られ
ペリシテ人のために粉を挽くサムソンだ!」  

いやいや、親愛なる坊や!  

我々は可能な限りの問いを投げかける。
しかし、風にびくともしない岩の上に建てられた塔を
見出すかもしれないのだ。  
それはキリスト教徒が言う「信仰」とは違う
確信してほしい! 

だが、おそらく書簡を偽造した
人々が
(そして優れた神秘家だった)
「信仰」と呼んだものと同じだろう。

私が「サマーディ」と呼ぶもの ——

そして「行いのない信仰は死んでいる」とされるように
親愛なる友よ、サマーディも
実生活でその金色の光を見せなければ
すべてはインチキなのだ。

もし君の神秘家がダンテになったなら
それは素晴らしい。
だがテニスンにしかなれなかったのなら
その恍惚など無意味だ!  

だがそのサマーディの塔は
「問いの時間」の攻撃に耐えられるのか?
 

そもそも、サマーディという観念自体が
人間、時間、存在、思考、論理といった
他の観念に依存していないか?

サマーディを比喩で説明しようとすれば
進化論や数学、歴史について
我々がすべてを知っているかのように
話してしまうことがないか?

それらは複雑で非科学的な学問であり
我々の背の曲がった懐疑家の一吹きの前では
藁のようなものだ。

しかし、ひとつの支柱は、ただの「常識」だ。

この間、私はドロシーと一緒にいた ——

そして、おろかにも、かなりいい雰囲気だと思い込んでいた。
彼女のサンドイッチは有名なのだ。

そんな時に・・・

バーナード・ヴォーン神父、トーレイ博士
アナンダ・メッテーヤ、G.W.フット氏、フラー大尉
カントの幽霊、バーナード・ショウ氏、
そして若いノイブルグらが割り込んできたのは
はなはだ無礼だった。

しかし、彼らはやってきたのだ、そして話し始めた!
聞いたこともないような話だ。

皆それぞれの視点を持っていたが
全員がドロシーは実在しない
あるいは仮に実在していたとしても、最悪の代物で
彼女のパンは乾いていて、紅茶は煮詰まっていた
と言い張った。

そして・・・

「ゆえに」私はひどい時間を過ごしていたというのだ。

話す、話す、話す!ああ神よ!

だがドロシーは静かにそのままで
何の反応も示さなかった。

そして最後には、私は彼らのことを忘れてしまった。  

冷静に考えれば、彼らの言うことは
おそらく正しかったのかもしれない。

だが、どちらが正しいか証明はできない。

ただ実用的な男として、私は最速の便で
(なにしろ私は今ジブラルタルにいるのだ)
ドロシーの元へ戻るつもりだ。

パンとソーセージのサンドイッチは下品で
もしかしたら幻かもしれない ——

でも、その味が好きなのだ。

そして噛めば噛むほど、私は満足し
しまいには批評家たちにも
ひとかけらを差し出す気になる。

これは「内なる確信」
つまり「一般的キリスト教徒の直感」と似て
いるようにも聞こえるが、違いがある。

キリスト教徒は、誰がどう見ても嘘としか思えないことを
信仰の中核に据える(しかも多くは女性が)。

私は逆に、事実を求め、観察を求める。
確かに懐疑主義のもとでは
どちらも「哲学的には」カードの家のようなものだ。
だが「実用的には」
科学は真であり、信仰は愚かだ。  

実用的には、3 × 1 = 3 が真であり、3 × 1 = 1 は嘘だ

—— 懐疑的には、両方とも偽かもしれないし
意味不明かもしれないが。

実用的には、フランクリンの天の火を得る方法は
プロメテウスやエリヤのものより優れている。

私は今、そのフランクリンの発見によって
人類が使えるようになった光の下でこれを書いている。  

実用的には

「私は白く輝く三角形の中心にある
光る目に22分10秒間意識を集中した。
注意がそれたのは45回だった」

というのは、科学的で価値のある記述だ。

「私は主に何日も熱心に祈った」というのは
何を意味するかも曖昧だし、再現も不可能だ。

「熱心に」とはどれほどか?「主」とは誰か?
「何日も」とは何日なのか?  

私の主張は、キリスト教徒のものよりも控えめだ。
彼(またはしばしば彼女)は、私の将来について
知りすぎていて鬱陶しいが、私は自分のサマーディから
絶対的なものは何も主張しない ——

単独観測の無意味さを、私は嫌というほど知っているのだ!

たとえそれが沸点の測定のような単純なことであっても。
そして彼(または彼女)の未来については
私はただ、愚か者の結末についての常識程度のことしか
言わない。

というわけで、私は懐疑主義を保持する ——

そして、サマーディもまた保持する。
この二つは互いに釣り合っており
私は心の中のこの二人の下男の下らぬ口喧嘩など
まるで気にしていないのだ!



《THE SOLDIER AND THE HUNCHBACK: ! AND ?》 

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《翻訳者kirakuによるメモ》  

David_Hume
デイヴィッド・ヒューム】wiki

(1711年1776年)は、スコットランド哲学者
ロックバークリーベーコンホッブズと並ぶ
英語圏の代表的な経験論者であり、生得観念を否定し
経験論懐疑論自然主義哲学に絶大な影響を及ぼした。
歴史家政治思想家経済思想家随筆家としても知られ、
啓蒙思想家としても名高い。
生涯独身を通し、子を一度も残していない。




 

知らない人のために…

「サマーディ」  三昧

三昧】wiki


アレイスター・クロウリーの秘密:魔術と哲学の真実

「#マインドゲリラ・
蛇・狼・山津見・山神・ルシファー・荼枳尼天」



「ドロシー」についてはこちら

Papessa_tiara
アレイスター・クロウリー】wiki

1923 - 1947年(中高年 - 老年期)の
緋色の女 (スカーレットウーマン)


Woman (Ultimate Mix)

「#マインドゲリラ・レッドドラゴンの正体(その2)



アレイスター・クロウリーがドロシーと
サンドイッチを食べながらいい感じな雰囲気に
なってきたところに現れた人たち・・・

バーナード・ヴォーン神父、トーレイ博士
アナンダ・メッテーヤ、G.W.フット氏、フラー大尉
カントの幽霊、バーナード・ショウ氏
そして若いノイブルグ


BernardVaughan
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《西洋魔術博物館》
Neuberg, Victor ヴィクター・ニューバーグ (1883-1940)
 魔法名 Omnia Vincam (A.A.)  Lampada Tradem (A.A.)




「フランクリンの発見」…というのはこれ 


ベンジャミンフランクリンの雷実験 
電気の秘密を解き明かす【ゆっくり解説】


「#マインドゲリラ・


A Day In The Life (Remastered 2009)

もちろん、私たちは「多」について調べても
個別に見ても全体を見ても
より満ち足りた気持ちにはなれない。

それらは収束し、また拡散し
それぞれの新たな知識の丘が
未踏の広大な地を露わにする。

望遠鏡で得た力が新たな銀河を開き
顕微鏡の進歩がより微細で
より理解しがたい生命を見せてくれる。

分子間の広大な空間の神秘
星々の衝突を防ぐエーテルのクッションの神秘!
すべてが満ちているという神秘
すべてが空であるという神秘!
しかし進むにつれて、ある感覚、ある本能、ある予感

――何と呼べばよいのだろうか――

…が芽生えてくる。

それは・・・

「存在は一つ」「思考は一つ」「法は一つ」だという感覚。

しかし、ではその「一つ」とは何か?と問うとき――

またしても、言葉、言葉、言葉を繰り返すだけになる。

そして私たちは、いかなる究極的な意味においても
たった一つの問いすら答えられていない。  

「月は何でできているのか?」  

科学は「グリーンチーズ(緑色のチーズ)」と答える。

 一つの月に対して、今や二つの概念がある

:  「緑色」と「チーズ」。  

「緑色」は太陽光や目、その他無数の要因に依存している。  

「チーズ」はバクテリアや発酵、牛の性質に依存している。

 「より深く、さらに深く、物事の泥沼へと!」

では我々はゴルディアスの結び目を断ち切るべきか?

「神がいる」と言ってしまうべきか?  

いったい「神」とは何なのか?

もし(モーセのように)神を
背中を見せる老人として描くなら
誰がそれを非難できようか?

大いなる問い――

いや「あらゆる」問いが大いなる問いである――は
まさにこのように私たちを粗雑に扱うのだと
幻滅した懐疑主義者は思いがちである!  

では、私たちは神を愛ある父として定義するか
嫉妬深い祭司としてか、聖なる箱舟の上に
かすかに輝く光としてか?

それが何の意味があるというのだ?

それらすべてのイメージは木や石のようなもの
我々の愚かな脳の木や石にすぎない!

「神の父性」とは人間のタイプに過ぎず
「人間の父」という概念と「広大さ」という
概念の合成でしかない。

再び「一つのものに二つ」!  

どんな思考の組み合わせも
それを考える脳以上にはなり得ない。

私たちが神について考え、語ることができることは
すべて思考として成り立つ限りにおいて
それを考える脳の全体よりも小さい。  

では良いか?

それなら、異教徒たちのように、神からすべての
「考えうる属性」を取り除いて否定しようか?

だが、そこにあるのはただの「思考の否定」にすぎない。

 神が「認識不可能」であるなら
それは私たち以下ということだ。

しかも「認識不可能なもの」は
すなわち「未知のもの」であり
「神」や「神がいる」という答えもまた
他のどんな答えと同じくらい無意味なものになる。  

では、私たちは誰なのか?  

私たちはスペンサー主義の不可知論者

哀れで愚かな、呪われたスペンサー主義の不可知論者!  

そして、それがすべてである。


《THE SOLDIER AND THE HUNCHBACK: ! AND ?》 

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《翻訳者kirakuによるメモ》  

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不可知論wiki

“物事の本質”は

「我々には知り得ず、認識することが不可能である」

とする立場のこと。


Herbert_Spencer
ハーバート・スペンサーwiki



すべては神のみわざ =

Alexander_cuts_the_Gordian_Knot
ゴルディアスの結び目wiiki

古代アナトリアにあった
フリギアの都ゴルディオンの神話と
アレクサンドロス大王にまつわる伝説である。
この
故事によって、手に負えないような難問を
誰も思いつかなかった大胆な方法で解決して
しまうことの
メタファー
「難題を一刀両断に解くが如く」
として使われる。


一休さん あわてない あわてない ひとやすみ ひとやすみ

「#マインドゲリラ・黒丁革命とは?(その1)

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